”論理”からの解放 デザインとは? 『デザインのデザイン』
「デザイン」とは何か。オシャレな装丁を施すこと?そして購買意欲そそるようにすること?実は、デザインと思っていたものはデザインの一側面にすぎず、デザインの仕事とは、人間の欲望に則りコミュニケーションの質を高める環境を作ることだというのは新しい視点だった。
たとえば、Facebookに「イイネ」ボタンがデザインされたことで承認欲求が生まれたのではなく、人間に元からあった承認欲求を効率的に満たすためにデザインされたのが「イイネ」ボタンというわけだ。したがって社会が変わりメディアが変わればデザインも変わる。
予言書か歴史書か
しかし、である。本書が書かれたのは2003年。TwitterやFacebookはもちろん、YoutubeもないMixiやGREEさえもない。デザインの力を世に知らしめたiPhoneもなければ、ゲーム体験をリ・デザインしたWiiも発売されていない。ようやくiPodが普及し始めた、2003年はそんな時代だ。その後の10年でAppleが「性能」以外の価値を提示し、SNSがコミュニケーションを変えてきたかを私達はよく知っている。
本書は、そんな00年代を「予言」しているとも読めるし、iPhoneやFacebookといった個別のサービスにとらわれないことで、この10年「デザインは何をしてきたのか?」を俯瞰的に物語る「歴史書」と読むこともできる。
なぜ今、デザインなのか
本書を手に取ったのは、最近の「デザイン」人気の高まりの背景を知りたかったから。本屋やビジネス雑誌に「デザイン思考」の特集が組まれ、「クリエイティブ」という言葉が飛び交う。ビジネスマンのメイン武器が「ロジカル・シンキング」から「デザイン」へと移ろうとしている。その背景にあるのは、「安く・高品質な」商品から「魅力的な」商品へのニーズの変化、合理的な「生産力」から感性に訴える「商品開発力」への産業構造の変化があるという。しかし、世界中のメーカーが「これからは品質ではなく、デザインだ!」と頭では分かっているものの、どうすれば“人の心をひきつけるデザイン”が生み出せるのかに頭を抱えているのだ。
「意識の建築物」としてのデザイン
では、あらためて考える。デザインとは何か。
著者が提案するのは、デザイン=「意識の建築物」という考え方だ。視覚、聴覚、触覚などの五感を建築資材とし、さらには受け手の「記憶」まで材料に、受け手に“あるイメージ”を想起させることだという。私はこれを「クオリア」と読みかえた。
たとえば、著者が手掛けた長野オリンピックのプログラム。とりわけこだわったのが「雪と氷の紙」と呼ばれる紙の使い方だ。ふわっとした真っ白な紙に、文字の型を押し当て刻印された文字は、まるで雪の上に残る足跡を連想させる。
(参考 長野オリンピック プログラム - Google 検索 )
この「雪と 氷の紙」に著者がこめた狙いは次の通り。
僕らは記憶の片隅にこんな光景を持っているはずだ。
降り積もった雪でふっくらと盛り上がった白い平面はまだ誰にも踏まれていない。そこを最初に歩く感覚。(中略)
そんな記憶がこの紙に触れた人々のイメージの中に呼び覚まされ、加えられていくのではないか。
「雪と氷の紙」は、そういうイメージを受け手の頭の中に呼び起こす引き金である。この仕組みを計画するプロセスがデザインである。
そう、受け手の感覚・記憶を頼りに、まるで建築物を作るように計算しながらイメージを頭の中に呼び起こす仕組みを計画するプロセスこそがデザインなのである。
デザインとAIについて
ここまで読んで私が思い浮かんだのは、AI(人工知能)のことだ。
今、AIの発展と常に抱き合わせで登場する「人工知能が人間の仕事を奪うのではないか」という懸念に対するアンチテーゼになるのではないか。
きっと、ロジカルに考え、より効率的に、より高い生産力をあげていく仕事は、どんどんAIにとって代わられていく。しかし、まだ誰にも踏まれていない朝の雪景色の記憶、その雪を踏みしめ歩く感触・・・そうしたものをコンピュータは持たない。デザインが人間の感覚=“身体性”を種子とするなら、AIには、意識の建築物であるところのデザインを作ることはできない。
AIが進化し複雑な論理を組み立てることを極めるほど、人間はデザインに注力し特化することができる。AIの進化は人間にしかできないこと、人間が本来持っている感覚をより強調し鮮明なものにするのではないか。