i'm a teapot

世界のおもしろいこと こっそり広げる

”何か”としか表現できない感情/『かがみの孤城』

「この感情はなんだろう。」

 2017年の「新潮文庫100」のコピーがいい。
なぜ小説を読むのか、私の理由がこのコピーに凝縮されている。私の欲望はシンプルで「まだ経験したことない感情」を知りたい。そして「自分がそこに立ったときにどうするか」を想像し、考えたくて読むのだ。いわば、感情の「予習」。

小説家はさながら人生の”先”を歩き、「こうしたらいいよ」と教えてくれる教師のような存在。だからおもしろい小説を書く人は、きっと濃厚な人生を送ってきているんだろうと思っていた。

でも、年を取ればだれもが小説家になれるのかというとそうでもない。なぜなら、あんなにもがき・悩んだ感情もしらないうちに消えてしまうからだ。そんな感情を、まるでその時に文字に落としたかのように新鮮に描く作家がいる。この物語の作者がまさにそれだった。

かがみの孤城

物語の主人公は7人の中学生。共通点は「中学校に行っていない」ということ。7人は自室の鏡の声に誘われて、鏡の中のお城に誘われる。
そして「おおかみさま」と呼ばれる狼のお面をかぶった少女から、「この城の中には、どこかに願いが叶う鍵がある。タイムリミットは次の学年にあがる直前、3月30日まで」と告げられる。
鍵を探してもいいし探さなくてもいい。「かがみの城」は彼らにとって「学校」のような場所になっていく。

舞台は童話のように優しく空想的で、現実離れした世界。しかし、そこに流れる感情にはドロリとした手触りがある。
たとえば、病気で学校を休んだ翌日の登校の「憂鬱さ」。
 下駄箱で友達と目が合った瞬間の「気まずさ」。
たとえば、「あー、このゲームを開発したの俺の知り合いなんだ」と嘘ついてしまう「虚栄心」。
中でもいちばん印象的だったのが “何か”としか言えない、思春期の微妙な心の揺れ。

合わない、という言葉は便利な言葉だ。
嫌いとか、苦手とか、いじめとか、そういうニュアンスを全部ごまかせる。こころがされたのは、ケンカでもないかわりに、いじめでもない。私がされたことはケンカでもいじめでもない、名前がつけられない“何か”だった。大人や他人にいじめだなんて分析や指摘をされた瞬間に悔しくて泣いてしまいそうな−−そういう何かだ。

その微妙な「何か」を伝える言葉が見つからず黙っていると、先生に「どうして黙っているの?」と問われる「絶望」。「あぁ、何を言っても伝わらないんだろうなぁ」というあきらめ。
名前がつけられない“何か”としか表現のしようがない感情がたしかにあった。それをすっかり忘れていた。

読み進めながら何度「あぁ、たしかにあった」と思わずつぶやいたか。
感情は決して消えてはおらず、記憶の押し入れ次々と引っ張り出されてくる。
作者はこの本を誰に向けて書いたのだろう。
いま、まさに中学を生きる若者たちか、あるいは感情を押入れに仕舞い込んでしまった大人か。