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60年前に書かれた本が今も面白い理由 『幼年期の終わり』

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古くなっても古びない本に、ときどき出会う。


1953年に発表された『幼年期の終わり』もそんな一冊だ。
「ある日、宇宙から人類を遥かにしのぐ知的生命体が訪れる・・・」
という設定自体は超がつくほどありふれた設定で、もはや何の新鮮さもない。
ところが、いざ読み始めると、全く古さを感じないどころか、
ページを繰る手が止まらない。

彼らのおかげで戦争はなくなる、食料問題もなくなる、
明らかに人類の生活は向上し、人類はかつてないほどの繁栄を謳歌する。
それでもなお、人類には不満があった。

それは「オーバーロード」と呼ばれる宇宙人たちが、
決してその姿を見せないことであった。
彼らはなぜ姿を見せないのか、そして彼らの究極的な目的は何なのか・・・

という興味で引っ張っていくのだが、
ストーリーを追いながら、僕にも疑問が湧いてきた。

設定やストーリー展開は古いのに、「古びていない」は何故なのだろうか。

そんな疑問を頭に置きながら、読み進めたところで分かった。
それは、現代の文脈で置き換えられるからだ。

人類を超えているが、その思考プロセスが追えない。
そんな相手を僕は「人工知能」に置き換えながら読んだ。
囲碁や将棋において、人類を破った人工知能には
膨大な過去のデータから独自にパターンを見つけ出す
ディープラーニング」という技術が使われているらしい。
それにより人工知能が「なぜ、その手を指したのか」人間には分からない、
ある種のブラックボックスとなっているという。

これが書かれた1950年代は宇宙開発競争の最盛期。
当時「未知の世界」といえば月であり、他の惑星であり、
その先に無限に広がる宇宙であった。

しかし、あれから60年。
宇宙に望遠鏡を浮かばせ観測することまでできるようになっても
一向に地球外生命体の気配はない。
「ある日、突如、人間より賢い宇宙人が現れる」なんて
ほとんどの人が「ありえない」と信じている。

それでも「高度な知的生命体」はありえると信じているのだ。
それは地球外ではなく、もっと身近なところから。

実は、私がこの本を手に取るのは二度目。
一度目に読んだのは15年ほど前だ。
ところが、そのオチも含めてほとんど記憶に残らなかった。
だが、今なら印象に残らなかったのにもうなずける。
2000年頃には、知性において人間を超えうる存在がいなかった。
少なくとも想像しづらかったのだ。

古くなっても古びない物語には、
人間の本能を刺激するところがある。

人間はそれがどんなに恩恵をもたらすものでも、
「自分の理解を超える存在」が本能的に怖いのだ。
その感覚は時代を超えて、人種を超えて、貧富を超えて変わらない。

古びない本は手にとった読者の文脈において何度でも蘇る。
そんな作品を人は「古典」と呼ぶ。