i'm a teapot

世界のおもしろいこと こっそり広げる

『ホモ・デウス』は人類史のネタバレ本

なぜホモ・サピエンスはこんなにも繁栄したのか、
そして私達ははどこへいくのか。
『ホモ・デウス』には人類史という物語の”ネタバレ”が書いてある。

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

人がミステリー小説の結末を先に見てネタバレしてしまうのは、結末が気になって仕方がないあの「落ち着かなさ」に耐えられないから。同様に世界中でこの本が売れてるのは、いま人類が置かれている状況がどうにも不安感だらけだから。
著者の言葉を借りれば

「世界は至る所で変化しているが、なぜ、どのように変化しているか分かっていない。権力は彼らから離れていっているが、どこへ行ったのか定かでない」

その結果トランプが大統領に選ばれたり、イギリスはEUからの離脱を決めたりしているのだと言う。自分がこの世界で脇役へと追いやられているような不安感を先進国でもかなり多くの人が抱いている。

一体なぜ? だれのせいで? どうすればいいの?

その「答え」をもっともわかりやすい形でこの本の著者は提示する。

1万年の人類史を2行でまとめる

この著者がすごいのは、長い人類の歴史を一言で分かった気にさせるところ。全世界で売れた前作『サピエンス全史』の内容を2行にまとめるとこうなる。
Q なぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか。
A フィクションを信じる力があったから

国家、会社、貨幣、農業、宗教、民主主義。現代の文明の根幹にあるこれらのモノには本当は実体が無く、「ある」と信じるからあるのだという。この信じる力がなければ150人の人間さえ束ねることはできない。

その著者が『ホモ・デウス』で言おうとしていることをまとめるとこうなる。
Q ホモ・サピエンスはどこへ行くの?
A 神になる。(ただし、一部の人に限る)

人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている

「神になる」とはどういうことか

著者の考える人類の21世紀の目標は次の3つのプロジェクトだ。
テクノロジー&生物工学によって
1)病と死の克服
2)「幸福」(=欲望)をコントロールし最大化する。
3)1)2)で培った技術で人類をアップデートする

死や障害、苦痛を取り除くような「マイナスをゼロ」にする技術は、転じて「ゼロをプラス」にする技術にもなる。遺伝子異常を“編集”することで致命的な病気を治癒させる技術は、そのまま健康な人間をパワーアップすることにも利用できる。こうして強化しホモ・サピエンスを超えた存在を著者は「神」と呼ぶ。

著者が起こりうる未来の可能性として挙げているのが、「データ教」の勃興だ。Facebookのイイネ、YouTubeで気になる映像で手を止める…そうしたひとつひとつのデータが、達の快感のツボを丸裸にしていく。「イイネ」を50回押せば、Facebook社はあなたよりもあなたに詳しくなる。
こうして集めたデータは全人類の「快感のツボ」を把握し、人類について人類よりも詳しくなる。その蓄積に基づいてより世界を“より気持ちのいい世界”へと作り変えていくだろうという。

なぜ、不安なのか

それを理解するために著者は、神とは何だったのか、宗教とはなんだったのかという議論に立ち戻る。著者は宗教=「神の存在を信じること」と定義することに問題があり、「神」という概念のアップデートを迫る。たとえば、共産主義には神がいないが、熱心な共産主義者は「宗教的」だと私達は感じる。そこで、著者が宗教に対して与えた定義はコレ。

人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教

大雑把にいうと、「こう生きたらええで」と人生に意味を与えてくれる物語が宗教なのだ。その定義だと、共産主義も、ファシズムも、民主主義も、データ至上主義も宗教になる。

近代以降、私達は「人間至上主義」、つまり「俺が幸せだと思ったら、それが幸せ」という“宗教”を信じてきた。これが民主主義、資本主義、現代アート、教育の形成に影響を与えてきた。
ところが、これをテクノロジーによって、超効率的に「俺が幸せと思う」を追求した結果、俺が「欲しい」と思う前に、amazonのデータが先に「欲しい」ものを提示してくれるようになってしまった。

人生に「意味」を与えてくれる存在が、かつて神から人間へと移ったように、人間からデータへ移ろうとしているのだ。そこに、私達が抱く不安感の根源がある。

この本には、ネタバレを読むような不思議な爽快感がある。
それは、該博な知識をもったな気鋭の学者が「フィクション」や「神」というマスターキーで、数千年の「人類史」というミステリーを謎解きしてくれるような感覚だ。
 これは著者が前著『サピエンス全史』でまさに書いていた通り、ホモ・サピエンスが「物語」によって関係性を整理し、世界を理解し、意味を与えたいとする欲望そのものだった。

 

<引用元>https://note.mu/imateapot/n/nb8b166c3e7ec

60年前に書かれた本が今も面白い理由 『幼年期の終わり』

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古くなっても古びない本に、ときどき出会う。


1953年に発表された『幼年期の終わり』もそんな一冊だ。
「ある日、宇宙から人類を遥かにしのぐ知的生命体が訪れる・・・」
という設定自体は超がつくほどありふれた設定で、もはや何の新鮮さもない。
ところが、いざ読み始めると、全く古さを感じないどころか、
ページを繰る手が止まらない。

彼らのおかげで戦争はなくなる、食料問題もなくなる、
明らかに人類の生活は向上し、人類はかつてないほどの繁栄を謳歌する。
それでもなお、人類には不満があった。

それは「オーバーロード」と呼ばれる宇宙人たちが、
決してその姿を見せないことであった。
彼らはなぜ姿を見せないのか、そして彼らの究極的な目的は何なのか・・・

という興味で引っ張っていくのだが、
ストーリーを追いながら、僕にも疑問が湧いてきた。

設定やストーリー展開は古いのに、「古びていない」は何故なのだろうか。

そんな疑問を頭に置きながら、読み進めたところで分かった。
それは、現代の文脈で置き換えられるからだ。

人類を超えているが、その思考プロセスが追えない。
そんな相手を僕は「人工知能」に置き換えながら読んだ。
囲碁や将棋において、人類を破った人工知能には
膨大な過去のデータから独自にパターンを見つけ出す
ディープラーニング」という技術が使われているらしい。
それにより人工知能が「なぜ、その手を指したのか」人間には分からない、
ある種のブラックボックスとなっているという。

これが書かれた1950年代は宇宙開発競争の最盛期。
当時「未知の世界」といえば月であり、他の惑星であり、
その先に無限に広がる宇宙であった。

しかし、あれから60年。
宇宙に望遠鏡を浮かばせ観測することまでできるようになっても
一向に地球外生命体の気配はない。
「ある日、突如、人間より賢い宇宙人が現れる」なんて
ほとんどの人が「ありえない」と信じている。

それでも「高度な知的生命体」はありえると信じているのだ。
それは地球外ではなく、もっと身近なところから。

実は、私がこの本を手に取るのは二度目。
一度目に読んだのは15年ほど前だ。
ところが、そのオチも含めてほとんど記憶に残らなかった。
だが、今なら印象に残らなかったのにもうなずける。
2000年頃には、知性において人間を超えうる存在がいなかった。
少なくとも想像しづらかったのだ。

古くなっても古びない物語には、
人間の本能を刺激するところがある。

人間はそれがどんなに恩恵をもたらすものでも、
「自分の理解を超える存在」が本能的に怖いのだ。
その感覚は時代を超えて、人種を超えて、貧富を超えて変わらない。

古びない本は手にとった読者の文脈において何度でも蘇る。
そんな作品を人は「古典」と呼ぶ。

”何か”としか表現できない感情/『かがみの孤城』

「この感情はなんだろう。」

 2017年の「新潮文庫100」のコピーがいい。
なぜ小説を読むのか、私の理由がこのコピーに凝縮されている。私の欲望はシンプルで「まだ経験したことない感情」を知りたい。そして「自分がそこに立ったときにどうするか」を想像し、考えたくて読むのだ。いわば、感情の「予習」。

小説家はさながら人生の”先”を歩き、「こうしたらいいよ」と教えてくれる教師のような存在。だからおもしろい小説を書く人は、きっと濃厚な人生を送ってきているんだろうと思っていた。

でも、年を取ればだれもが小説家になれるのかというとそうでもない。なぜなら、あんなにもがき・悩んだ感情もしらないうちに消えてしまうからだ。そんな感情を、まるでその時に文字に落としたかのように新鮮に描く作家がいる。この物語の作者がまさにそれだった。

かがみの孤城

物語の主人公は7人の中学生。共通点は「中学校に行っていない」ということ。7人は自室の鏡の声に誘われて、鏡の中のお城に誘われる。
そして「おおかみさま」と呼ばれる狼のお面をかぶった少女から、「この城の中には、どこかに願いが叶う鍵がある。タイムリミットは次の学年にあがる直前、3月30日まで」と告げられる。
鍵を探してもいいし探さなくてもいい。「かがみの城」は彼らにとって「学校」のような場所になっていく。

舞台は童話のように優しく空想的で、現実離れした世界。しかし、そこに流れる感情にはドロリとした手触りがある。
たとえば、病気で学校を休んだ翌日の登校の「憂鬱さ」。
 下駄箱で友達と目が合った瞬間の「気まずさ」。
たとえば、「あー、このゲームを開発したの俺の知り合いなんだ」と嘘ついてしまう「虚栄心」。
中でもいちばん印象的だったのが “何か”としか言えない、思春期の微妙な心の揺れ。

合わない、という言葉は便利な言葉だ。
嫌いとか、苦手とか、いじめとか、そういうニュアンスを全部ごまかせる。こころがされたのは、ケンカでもないかわりに、いじめでもない。私がされたことはケンカでもいじめでもない、名前がつけられない“何か”だった。大人や他人にいじめだなんて分析や指摘をされた瞬間に悔しくて泣いてしまいそうな−−そういう何かだ。

その微妙な「何か」を伝える言葉が見つからず黙っていると、先生に「どうして黙っているの?」と問われる「絶望」。「あぁ、何を言っても伝わらないんだろうなぁ」というあきらめ。
名前がつけられない“何か”としか表現のしようがない感情がたしかにあった。それをすっかり忘れていた。

読み進めながら何度「あぁ、たしかにあった」と思わずつぶやいたか。
感情は決して消えてはおらず、記憶の押し入れ次々と引っ張り出されてくる。
作者はこの本を誰に向けて書いたのだろう。
いま、まさに中学を生きる若者たちか、あるいは感情を押入れに仕舞い込んでしまった大人か。

”論理”からの解放 デザインとは? 『デザインのデザイン』

 「デザイン」とは何か。オシャレな装丁を施すこと?そして購買意欲そそるようにすること?実は、デザインと思っていたものはデザインの一側面にすぎず、デザインの仕事とは、人間の欲望に則りコミュニケーションの質を高める環境を作ることだというのは新しい視点だった。

 たとえば、Facebookに「イイネ」ボタンがデザインされたことで承認欲求が生まれたのではなく、人間に元からあった承認欲求を効率的に満たすためにデザインされたのが「イイネ」ボタンというわけだ。したがって社会が変わりメディアが変わればデザインも変わる。

デザインのデザイン

デザインのデザイン

 

予言書か歴史書か

 しかし、である。本書が書かれたのは2003年。TwitterFacebookはもちろん、YoutubeもないMixiGREEさえもない。デザインの力を世に知らしめたiPhoneもなければ、ゲーム体験をリ・デザインしたWiiも発売されていない。ようやくiPodが普及し始めた、2003年はそんな時代だ。その後の10年でAppleが「性能」以外の価値を提示し、SNSがコミュニケーションを変えてきたかを私達はよく知っている。

 本書は、そんな00年代を「予言」しているとも読めるし、iPhoneFacebookといった個別のサービスにとらわれないことで、この10年「デザインは何をしてきたのか?」を俯瞰的に物語る「歴史書」と読むこともできる。 

なぜ今、デザインなのか

本書を手に取ったのは、最近の「デザイン」人気の高まりの背景を知りたかったから。本屋やビジネス雑誌に「デザイン思考」の特集が組まれ、「クリエイティブ」という言葉が飛び交う。ビジネスマンのメイン武器が「ロジカル・シンキング」から「デザイン」へと移ろうとしている。その背景にあるのは、「安く・高品質な」商品から「魅力的な」商品へのニーズの変化、合理的な「生産力」から感性に訴える「商品開発力」への産業構造の変化があるという。しかし、世界中のメーカーが「これからは品質ではなく、デザインだ!」と頭では分かっているものの、どうすれば“人の心をひきつけるデザイン”が生み出せるのかに頭を抱えているのだ。 

「意識の建築物」としてのデザイン

 では、あらためて考える。デザインとは何か。

 著者が提案するのは、デザイン=「意識の建築物」という考え方だ。視覚、聴覚、触覚などの五感を建築資材とし、さらには受け手の「記憶」まで材料に、受け手に“あるイメージ”を想起させることだという。私はこれを「クオリア」と読みかえた。

 たとえば、著者が手掛けた長野オリンピックのプログラム。とりわけこだわったのが「雪と氷の紙」と呼ばれる紙の使い方だ。ふわっとした真っ白な紙に、文字の型を押し当て刻印された文字は、まるで雪の上に残る足跡を連想させる。

(参考 長野オリンピック プログラム - Google 検索 )

この「雪と 氷の紙」に著者がこめた狙いは次の通り。

僕らは記憶の片隅にこんな光景を持っているはずだ。

降り積もった雪でふっくらと盛り上がった白い平面はまだ誰にも踏まれていない。そこを最初に歩く感覚。(中略)

そんな記憶がこの紙に触れた人々のイメージの中に呼び覚まされ、加えられていくのではないか。

「雪と氷の紙」は、そういうイメージを受け手の頭の中に呼び起こす引き金である。この仕組みを計画するプロセスがデザインである。

そう、受け手の感覚・記憶を頼りに、まるで建築物を作るように計算しながらイメージを頭の中に呼び起こす仕組みを計画するプロセスこそがデザインなのである。 

デザインとAIについて

 ここまで読んで私が思い浮かんだのは、AI(人工知能)のことだ。

今、AIの発展と常に抱き合わせで登場する「人工知能が人間の仕事を奪うのではないか」という懸念に対するアンチテーゼになるのではないか。

 きっと、ロジカルに考え、より効率的に、より高い生産力をあげていく仕事は、どんどんAIにとって代わられていく。しかし、まだ誰にも踏まれていない朝の雪景色の記憶、その雪を踏みしめ歩く感触・・・そうしたものをコンピュータは持たない。デザインが人間の感覚=“身体性”を種子とするなら、AIには、意識の建築物であるところのデザインを作ることはできない。

 AIが進化し複雑な論理を組み立てることを極めるほど、人間はデザインに注力し特化することができる。AIの進化は人間にしかできないこと、人間が本来持っている感覚をより強調し鮮明なものにするのではないか。

"炎上"の誘惑 その危うさ/『モンスターマザー』

「今のところ、いじめが原因で自殺したとは確認できていません」

いじめとの因果関係を否定する学校の記者会見を見る度に、反射的に「何か隠してるにちがいない・・・」と感じる、そんな人にこそ読んでほしい。実はその意識(あるいは無意識)こそ、事実をねじ曲げる原動力だと本書は訴える。恥ずかしながら、私も気づかぬうちに加担していたことに気付いた。

モンスターマザー:長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い

モンスターマザー:長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い

 

 本書がとりあげるのは2005年12月に長野県・丸子実業高校で起きた学生の自殺と、事件をめぐる学校と遺族の闘い。事件後から「いじめがあったのではないか」と母親やマスコミ、弁護士が学校を追い詰めていく。  

 しかし、裁判が始まると明らかになるのは逆の事実ばかり。司法の最終判断は「いじめはなかった」だけでなく「学校を追い詰めた」として母親に賠償命令まで下すという異例の判決となった。 

追い詰めたとされるこの母親のエキセントリックぶりが凄まじい。子どもが家出すれば「休日返上でも探せ!警察に訴えるぞ!」と電話で脅迫、子どもにも「いかにつらいか」を学校に訴えさせる。子どもの死に“備えて”、いじめの経緯を書かせる。
学校側が「子ども本人の声が聞きたい」と自宅を訪れても会わせない。完全に、子どもを支配している。要求が叶わなければ「自殺する」と喚く。

しかし、
本当に恐ろしいのはこの母親にマスコミや弁護士、有名ルポライターが加担し炎上、“祭り”化していく様だ。
 学校長は母親に半年以上振り回された挙句に、記者会見で批判的な質問の矢面に立たされた。やりきれなさから一瞬出た“緩んだ表情”をマスコミは編集し何度も何度も使う。こうして「生徒が死んでいるのに、ヘラヘラしている校長」が作り出される。
 あきらかにマスコミ側には取材する前からストーリーがあったし、弁護士にも「いじめを隠ぺいする学校許すまじ!」のストーリーがあった。

 読み終えたあと、どっと疲れた。“事実”らしきモノのほとんどが、誰かの「思い込み」により作られてるのではないか・・・という気持ち悪さがベッタリと残った。その“事実”を覆すためには、10年以上も前の事実を丹念に掘り起こすという著者の執念と、記憶を絞りだし語ってくれる当事者たちの覚悟を要するのだから。

 しかし、この本の教訓を思い出すなら、この本を直ちに鵜呑みにすることにも慎重でなければならない。「母親=常軌を逸した人」として、「こんな狂人を隔離すべきだ」という発想に流れるのは、読者としてもっとも避けなければならないことかもしれない。

 この母親には確定診断は受けていないものの、「境界性人格障害の疑いあり」と診断された経緯があり、この障害は幼少期の環境との因果関係が指摘されている。どんなに社会から理解されなくても、彼女の中にはきっと「彼女の論理」があるはずなのだ。きっと私たちは何らかの判断する前に「息子を支配せずにはいられなかった」彼女なりの論理を丁寧に聞くことが必要なのではないか。(著者・福田まゆみさんが直接取材した時に、答えてもらえなかったのが残念でならない。)

 混沌とした事実の中に真実を見つけるためには、「悲劇の原因はココにある」「諸悪の根源はコレだ」「すべての責任は彼にあったのだ」とハッキリさせて、スッキリしたくなる誘惑と常に戦わなければならないということを本書は教えてくれた。

そろそろ“カン”で教育政策を決めるのやめませんか?/『「学力」の経済学』

これまで教育の政策を評価する基準がなかった。

たとえば、
「ゲームは悪影響?」「ご褒美でつるのは悪?」「35人クラスの方がいい?」etc・・・
議論されるものの、これまでは“教師のカン”で決まってきた。

 そういう現状にメスを入れ、「教育にエビデンス(=科学的な根拠)をいれませんか?」と提案しているのが本書。 

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 

 この本には、「なんとなくこうじゃね?」と議論されがちな、教育をめぐるアレコレに対して、著者が古今東西からデータを集め、一つずつ“客観的な”事実を提示していく。

・テストでいい点を取ったらご褒美 VS 読書をしたらご褒美
 → 読書の勝ち。アウトプットよりもインプットを褒めるべき
・自尊心が高いと学力は高いか?
 →根拠なし。
 「学力が高いと自尊心が高い」は正しい。(原因と結果が倒置)
・褒め方。「頭がいいね」VS「頑張ったね」
 →「頑張ったね」の勝ち。能力を褒めると努力を怠る。
・テレビゲームをやめさせると成績あがる?
 →上がらない。
 1時間ゲームをやめさせても、勉強時間は平均1.8分(男子)しか増えない。

■クラスからの影響について

・平均的に学力が高い集団にいると、自分の学力にはプラス。
・ただし、優等生からプラスの影響を受けるのは上位層だけ
・問題児がいると、顕著に悪影響
 1人問題児がいると、他の子が問題行動起こす確率は17%アップ
・成績別にクラスを分けると、全体の学力を上げる。特に成績下位ほど効果大
※ただし、幼いときに習熟度別クラスに分けることは、平均学力を下げ、格差を拡大。

・いつ教育に投資すべきか。
 →投資を収益率で見たとき、子供が幼いほどに効率がいい。

・少人数学級はいいか?
 → 無駄ではないが、費用対効果が低い。

・では、費用対効果が高い対策とは?
 → 習熟度別の方が効果高い。

もっと費用対効果がよい施策は、
「“学歴と年収のデータ”の関係について教える」だけ、というものだった。
曰く、「高卒と大卒で生涯で稼ぎが1億円ちがう」という事実を子供がしるだけで、どんな政策よりも子どもの偏差値は効率的に上昇する。

 ちなみに「こども手当」も費用対効果低い。
 なぜか日本では、「費用対効果効果が低い」という結論が出ているものに限って、選択される。

 

・学校別順位は公表すべきか?
 → 順位だけでは意味なし。学校が“よい教育”を行っている証拠とは言えない。
  たんに、“教育に関心が高い”家庭が通っている可能性も。

・教員免許は教員の質を担保するか?
 → ほとんど意味なし。免許の有無での教員の質の差は少ない。
  それよりも免許のある教員同士の差の方がはるかに大きい!

 もちろん、海外のデータが絶対正しいとは著者は言っていない。
日本の事情がある。でも、

 それもこれもデータがないことには議論できないよね!

というのが著者の主張。現状は日本国内ではデータ不足&データへのアクセス困難。「誰が誰を教え、その後どうなったか」が紐づけられない。文科省による全国学力・学習状況調査はオープンにされておらず、学術研究に使えない。調査に50億円(!)も使われているにも関わらず。

 まず、そこから始めましょうということ。

 

ルールは変化する

あなたが好もうが好むまいが技術は進歩するし、世界のルールは変わる。

私たちが選べるのは変化を「怖れる」か「楽しむ」か、そのスタンスだけだ。

 

「今のルール」がもっとも変わりそうな分野はips細胞を中心とした再生医学。そして、もうひとつがロボット工学だ。

これまでも「これからはロボットの時代だ」「日本はロボット技術で世界をリードしている!」と散々言われながら爆発的な普及は見られなかった。その原因は技術力の不足ではない。

最大の原因は「リスク意識」と「過剰な責任」にある

それを象徴するケースを元パナソニックの技術者・本田幸夫さんが教えてくれた。

 

ルンバのようなお掃除ロボットは実は日本でも開発されていました。

パナソニックでも1990年代に開発していたのですが、商品化できませんでした。

その理由の一つは絶対安心を保証できないから。

「おばあちゃんが仏壇にお参りをして火の付いたローソクを畳の上において、そのまま忘れてしまい、お掃除ロボットが掃除をしているときに火のついたロウソクを絶対に倒さないか?もし火事が起きた時に誰が責任を追うのや?

と、商品開発部門から指摘されて商品化できなかった。

(本田幸夫『ロボット革命』

ロボット革命 なぜグーグルとアマゾンが投資するのか(祥伝社新書)

 

国内で「リスクが大きい」「責任はだれがとる」という議論をしているうちに、気づけば世界中で動き出している。Amazonは商品配達の全自動化を目指し「ドローン」と呼ばれる飛行型ロボットでの飛行試験を始めようとしているし、Googleは8社のロボットベンチャーを相次いで買収、情報世界からリアルワールドへ触手を伸ばそうとしている。

Googleに買収された企業の中には、東京大学発のベンチャー企業も含まれている。「誇らしい」ことに、この企業は「DARPAチャレンジ」というロボットの技術の大会で、圧倒的な性能を示し世界を驚嘆させた技術力を持つ企業だった。Googleに買収されてからは、この技術がどうなっているのか、まったく動向をつかむことはできなくなった。

 

リスクを取らないことによる最大のリスクは「ディファクトスタンダード」。すなはち、市場における標準規格を海外の企業に握られることだ。たとえば、ドローンによる自動配達ロボットをいざ日本でも導入しようとしたときに、Amazonにディファクトスタンダードを取られていたらどうなるか。電線の多い日本でも対応できるように仕様に変更してもらう必要があるかもしれない、そうなると莫大な金額を請求される可能性があるし、日本企業が海外のロボット企業の下請けになる可能性もある。

 

技術的特異点といわれる2045年には、今あるほとんどの単純労働がロボットにとって代わるといわれている。でも、それって悪いことなのだろうか?

現代に限らず、100年前に行われていた仕事だってそのほとんどが無くなり機械により自動化されているではないか。「きつい仕事」「つまらない仕事」を避ける為に、人間はかつて奴隷を使ってきたし、今ではロボットを開発している。そうやって捻出した時間を人間は「人間にしかできない仕事」「新しい仕事を生み出すための仕事」に費やすことができる。

ロボットの台頭は、人間自身が「人間にしか出来ない仕事とは何か」考えるためのまたとない機会となるのではないか。